ひじま、まさきです。
「ジコ中」というと、
あまり良い印象がないのかも
しれませんね。
ただ、その良くない印象≒評価は、
ジコ中の人にとって
直接的には効かないと思いますよ。
なぜって・・・「ジコ中」の人は
自分が基準の中心だったりしますから。
そうすると
「ジコ中」無敵説
ってことになります。
現に、それに付き合いたい人
その「ジコ中」に協力したい人
がいれば、やっぱり無敵なのです。
・・・すると、「ジコ中」が問題なのか
という疑問に行き当たります。
「ジコ中」は
自己中心的に考えるという価値を
好まない人にとって
問題ではありますが
ある「ジコ中」な行動や決断を
意志が強い とか 意欲的とか
好ましく捉える人もいます
かく言う自分も、どちらかと言えば
いわゆる周りの事を気遣う事の少ない
「ジコ中」は、自分の基準に合いません。
これは、僕が僕の好き嫌いで言っている話。
でも、これって、
自分の基準を中心に置いている
「ジコ中」な評価じゃなかろうか
とも思ったりするわけです。
究極の所、どんな人も最後は
自分の意志で、何かを選択します。
範囲と影響力の差はあれ
「ジコ中」心的に決断するのです。
価値観の合わない相手と活動するときも
いろいろな条件から
「自分」で決めてます。
そして、仮にその相手が
こちらの複雑な表情を見て
「100%受け容れてないなぁ」と
気づいたうえで、協力に
同意したとしたら、
それは、相手が
「ジコ中」心的に決断したことです。
どんな着地点を作るかは
自分が決断するのだ
ということを
憶えておいて下さい。
それが、
快諾
であれ
強制
であれ
妥協
であれ
自分が決めた事だということ。
仮に立場が逆転したとしても
相手に
快諾させた
のであれ
強制させた
のであれ
妥協させた
のであれ
相手を気遣うことは大切な事ですが
相手の決断までも気遣う必要は
無いんじゃないかな
そう思います。
だからこそ、まず
自分がやりたいこと(行動や目標)、
自分がそうありたいこと(基準)
を中心に生きていきませんか。
もし仮に相手を気遣うのであれば
相手の決断ではなく
相手が、主張しやすいように
話し合える、協議できる
・・・こちらで言えば
相手の意見を否定せずに聞く
関係であれば良いわけですから。
気遣いすぎること
そのものは、相手を見下している事
に繋がる場合もあるので
要注意ですよね。
ではまた。
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